プロもボールから目が離れる

「ボールから絶対目を離すな!」。野球でコーチが打者を指導する際に、よく使うセリフである。しかし、トップレベルの投手だと、ボールが手を離れてからホームベースを通過するまでの時間はわずか0.5秒以下。この時間内に軌道を見極めてスイングするかを意思決定し、それから動くのでは絶対に間に合わない。人間はモノが見えて認識をする脳内処理に約0.2秒が必要で、そこからバットを振るにも同程度の時間がかかるからだ。

では、打者はどのような脳内処理で高速のボールを打っているのか。そして、スイングスピードなど基本能力に大きな差がない打者同士の優劣はどこで決まるのか。NTTのSBSでは、プロ野球の複数の1軍選手と2軍選手の協力を得て、バッティング中の視線挙動や頭部の動き、バットの軌跡などを計測した注1)

注1)現役のプロ野球選手(1軍野手3人、2軍野手3人)を対象として、投手と打者の対戦形式で視線の挙動を分析した。投球には、あらかじめ球種を教えられる速球と球種を教えられない速球およびカーブの3種類があり、元プロ野球の投手がそれらをランダムに投げた。打者は球種によらず、ストライクなら強打し、ボールなら見送ることを求められた。その際の打者の眼球運動を小型の高速視線追跡装置(アイトラッカー)で、頭部運動とバットの軌跡を光学式モーションキャプチャーシステムで計測した。

図3は、1軍選手A氏と2軍選手B氏の測定結果である。いずれの打者にも共通していたのが、最初のうちはボールを忠実に追跡しているが、ある時点でボールから目を離して視線をバットとコンタクトすると予測される地点に先回りしている(予測的サッカード)こと。つまり、ボールをずっと見ているわけではない。面白いのは、この事実を選手が認識していないことだ。柏野氏がA氏に何を意識して打っているかを質問したところ、「ずっとボールを見続けること」と回答したという。もう1つ明らかになったのが、予測的サッカードのタイミングがA氏の方が有意に遅いことだ。具体的には、バットにコンタクトする約0.1秒前に開始されることが多いのに対し、B氏は約0.2秒以上前にピークが来ている。つまり、A氏は打撃動作を修正できるギリギリのタイミングまでボールを追跡していることが分かる。

図3 1軍選手と2軍選手のバッティング中の視線挙動の差
図3 1軍選手と2軍選手のバッティング中の視線挙動の差
上の2つのグラフで、横軸はボールへのコンタクトを0としたときの時間、縦軸は打者の位置から見たボールの水平方向の角度(打者から見てホームベース方向を0°、それと直交する投手方向の軸を90°とした)。右図にあるように打者の視線は頭部の動きと眼球の動きの合計になる。いずれの打者も視線は最初のうちは球を忠実に追跡しているが、途中から球より先に進み、コンタクトが予測される地点に先回りする(予測的サッカード)。両者の違いは、予測的サッカードのタイミングが1軍選手の方が有意に遅いことだ。(図:NTT)
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こうした本人が自覚していない脳内情報処理は「潜在脳機能」と呼ばれ、「アスリートのパフォーマンスを決定付ける要因」(柏野氏)だという。打者は反復的な練習によって身体の運動調節を学習し、脳がボールの軌道を知覚するよりも短時間に動いてボールを打っているのである。

相手の動きから予測するスキル

野球の打撃やテニスのレシーブのように、高速のボールを打つ対人型の球技では、球種予測、軌道把握、運動計画、意思決定、運動調節といった脳情報処理が重要になる。しかし、こうしたアスリートの認知能力は、これまで客観的に評価することが難しかった。SBSはここにメスを入れつつある。

着目したのは、「第3のスポーツ環境」として有用なVR(仮想現実)を使うことだ。「VRでは時間を操作したり、クリティカルな状況を意図的に作り出したりできる」(柏野多様脳特別研究室SBS主任研究員の木村聡貴氏)。

SBSで行ったのは、VRを用いたテニスのレシーブにおける予測スキルと、それに基づく運動調節スキルの評価だ(図4)。対象は上級者から初級者まで18人。実際にラケットを持ち、VRゴーグルを装着して、画面内のサーバーのサービスを仮想的に打ち返す動作をした注2)。球種は「フラット(速い)」と「スピン(遅い)」の2つだが、サーバーの動作とボールの軌道を入れ替える「ミスマッチ条件」もテストした。例えばフラットの動作で軌道がスピンという通常はあり得ないサーブで、被験者の予測と調節のスキルを観察した。

図4 VRを使ったテニスの運動タイミング調節実験
図4 VRを使ったテニスの運動タイミング調節実験
テニスのレベルの違いによる球種の予測と運動調節のスキルを調べるため、初級者から上級者までの大学生18人が実験に挑んだ。参加者はVRのHMDをかけ、画面内のサーバーが打つボールを実際にラケットを持って打ち返す。(写真:NTT)
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注2)事前にテニスの熟練者(元スリランカ代表選手)のサービス動作をモーションキャプチャースーツで計測するとともに、打球を2台のビデオカメラで同期撮影して、ボールの軌道を3次元で構成してVRシステムに実装した。球種はフラットとスピンを用意し、それぞれに対応するサーバーのアバターの動きとボールの軌道が画面に提示される。一方、レシーバーは市販のHMD(ヘッドマウントディスプレー)を装着するとともに、HMDトラッカーをラケットに付けて動きを計測。各球種を疑似ランダムに20試行ずつ、計40試行の課題を行ったが、計測後半ではミスマッチ条件を提示した。

結果は図5である。横軸はサーブ開始操作からの時間、縦軸は利き手速度の変化だ。レシーバーは最初、テイクバックをするので利き手速度の変化がマイナス方向になり、その後、スイングを開始して速度がプラス方向に転じてヒットする瞬間に最大になる。結論から言うと、上級者はサーバーの動作から球種を予測して運動タイミングを調節している。一貫してフラット動作から放たれた際はピークが早く、スピン動作の際は遅くなっている。一方、中級者や初級者には、球種予測に基づくタイミング調節があまり見られなかった注3)

図5 上級者はサーバーの動作から球種を予測
図5 上級者はサーバーの動作から球種を予測
上級者ではサーバーのフラット動作から放たれたボールからはテイクバックのピークが早く、スピン動作では遅かった。一方、中級者と初級者にはミスマッチ条件でのピークの時刻シフトは見られなかった。(図:NTT)
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注3)SBSではもう1つ、テニスサービス用VRシステムを用いた認知計測も行った。被験者はサービス映像を見ながら、球種が分かったら直ちに指定のボタンを押す実験だ。結果は、初級者はミスマッチ条件があるにも関わらず100%正解し、上級者と中級者ではミスマッチ条件に切り替わったときに正解率が一時的に低下した。つまり、上/中級者では、サーバーの動作を見て予測的に回答しているが、初級者は、動作を見ず、ボールの軌道のみを見て反応していることが分かった。

先ほどの打者のボールの見極め、そしてテニスのレシーブについても、VRを用いたトレーニングは効果を期待できる、とSBSはみている。例えば「予測はできても運動タイミングの調節が上手くないテニス選手の能力をVRで鍛えることは可能だ」(木村氏)。従来のようにグラウンドやコートで闇雲に長時間練習するより、室内で脳を鍛えた方がいいケースも今後数多く出てくるだろう。