緊張とパフォーマンスに相関なし

メンタルは試合の勝敗を左右する重要な要素である。「試合中はリラックスしろ!」。監督が選手にこういう指示を出すこともある。確かに、本番で過度に緊張して実力を出せなかったトップアスリートも多い。しかし、本当に緊張は「悪」なのか。SBSでは社会人野球のトップチームなどの投手を対象に、試合中の緊張と制球力の関係を調べた注4)

注4)社会人野球のトップチームの投手8人とプロの投手2人が参加した。投手の心拍数は、心拍などを計測できる機能素材「hitoe(ヒトエ)」を組み込んだウエアを着用して計測した。加えて、投球の動作時間も映像解析でデータを取得した。全体的に心拍数が上昇するとともに、動作時間は短くなり、制球力が高まる傾向が見られたという。

いずれの投手も練習時に対して試合時の心拍数が約10~30回/分も上昇していた。「心拍数が120回/分より高いのはほぼメンタル成分。中には、試合中に約180回/分という生理限界に近い状態の投手もいた」(柏野氏)。つまり、試合では投手の脳に認知負荷がかかって緊張状態で投げているのだが、それがパフォーマンスにどう影響するかは選手によって異なっていた。

図6は、2人の投手のイニングごとの制球力(キャッチャーが構えた位置と実際の投球のズレである投球誤差)と心拍数の関係を示したものだ。上の選手はイニングが進むごとに心拍数が上昇するが、制球力は高まっている。逆に下の選手は心拍数が下がっていき、制球力も落ちていった。

図6 緊張するとパフォーマンスが悪くなるとは言えない
図6 緊張するとパフォーマンスが悪くなるとは言えない
野球の投手の心拍数と制球力、ここではキャッチャーが構えた位置と投球のズレを実際の試合で計測した。いずれの投手も緊張によって練習時と比べて心拍数が大きく上昇していた。上段のように試合で回が進むに連れて心拍数が高まる一方、投球誤差は減ってパフォーマンスが良くなる選手もいれば、下段のように回が進むごとに心拍数が下がり、パフォーマンスが悪化した選手もいた。(図:NTT)
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ここから言えるのは、「過度に緊張するとパフォーマンスが低下する」という“常識”は、誰にでも当てはまるものではないということだ。もう1つは、メンタル状態の可視化によって、個々の選手が最高のパフォーマンスを発揮できる状況が見えてくる可能性があること。この実験は、どの現場にもある「画一的な指導やトレーニングからの脱却」の一歩になるかもしれない。

パラアスリートに大きな脳再編

「神経科学の成果や知見は、スポーツにはまだ生かされていない。パフォーマンスを高めるための様々なニューロモジュレーションがこれから出てくるだろう。例えば、イップスを克服できれば大きなインパクトがある」。『パラリンピックブレイン』(東京大学出版会)の著者で、パラアスリートの脳活動を分析している、東京大学の中澤教授はこう予測する。

ニューロモジュレーション=異常をきたした中枢神経系の機能を、微弱な電気刺激や薬剤の持続的な投与でモジュレート(調節)する治療法。
イップス=精神的な原因などでスポーツの動作に支障をきたすこと。ゴルフのパッティングや野球の投球などに多い。

脳には「可塑(かそ)性」という性質がある。アスリートのように競技ごとの特定のトレーニングを積み重ねると、脳内の神経細胞(ニューロン)間のシナプス伝達の効率や、構造が変化するなどの再編が起こる。同氏は数人のパラアスリートの身体能力を調べる中で、彼らの運動を制御している脳の働きが驚くほど変化していることに気づいた。 それ以来、様々な競技や障がいを持つアスリートの脳を調べた結果、パラアスリートの脳内にはオリンピック選手に比べ「はるかに大きな変化が起きている」(中澤氏)ことがわかったという(図7)。現在はそれを突き止めた段階だが、将来的にはニューロリハビリテーションの発展に貢献したり、アスリートの新たなトレーニング法を開発したりできる可能性があるとする。例えば、人間の体は酸素濃度が低い高地のように何らかの障害状態に直面すると、脳がそれに対応しようと変化する性質がある。そこで仮想的な障害状態を作りだして“脳を鍛える”といったトレーニングが考えられる。

図7 身体活動と脳の可塑的変化の関係
図7 身体活動と脳の可塑的変化の関係
オリンピックアスリートとパラアスリートにおける身体活動と脳の可塑的変化の関係。アスリートのように特定のトレーニングを積み重ねることによって脳の可塑性はプラスに転じる。パラアスリートではそれに加えて、障がいに起因する可塑的な変化も上乗せされる。(図:中澤公孝)
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ニューロリハビリテーション=神経疾患に起因する機能障害回復のためのリハビリ。