プロ野球のピッチャーが投げたボールがホームベースを通過するまで、わずか0.4~0.5秒。瞬時の判断と動作が求められるスポーツにおいては、無自覚的な脳の動き「潜在脳機能」が大きな役割を果たしている。近年、データを分析して戦術や選手の評価・育成につなげるスポーツアナリティクスが進歩しているが、脳科学の観点にも急速に注目が集まっている。「スポーツアナリティクス2.0」として期待されるスポーツ脳科学の研究はどこまで進んでいるのか。NTTスポーツ脳科学プロジェクトを率いる柏野牧夫氏(NTTコミュニケーション科学基礎研究所NTTフェロー、柏野多様脳特別研究室長)に聞いた。

――2017年1月にスポーツ脳科学プロジェクトを立ち上げ、スポーツ上達のための「心」と「技」に迫る研究を続けていらっしゃいますが、スポーツ界において脳科学はどのように受け止められているのでしょうか。

NTTコミュニケーション科学基礎研究所NTTフェロー、柏野多様脳特別研究室長の柏野牧夫氏。スポーツ脳科学プロジェクトを率いる(写真撮影:吉成 大輔)

柏野氏(以下敬称略):非常に面白いと思ったのは、毎年秋に米国で行われる脳科学の世界最大の学会(Society for Neuroscience)での出来事です。2017年にスポーツ関係の発表を初めて出した時は興味を持つ人はあまりいなかったのですが、2018年に発表した時は盛況で、メジャー球団の関係者も何人か質問に来ました。1年でずいぶん変わったなと驚きました。

我々とお付き合いのあるメジャーリーグのある球団は、データサイエンティストだけではなく、我々の同業者である脳科学や認知科学の研究者を早速スタッフとして採用しています。球団のスタッフから出てくる質問がもう、研究者のものなんですね。「野球は知らない」と言うので笑いましたが。

次の「脳」のステージに移行

柏野:メジャーリーグでは、2015年の「スタットキャスト」(ボールを追尾するためのレーダー装置「トラックマン」と映像解析システムによるデータ解析ツール)導入を境目に、アナリティクスが非常に発展しました。その到達点と言えるのが、昨シーズンのレッドソックスの優勝です。メジャーリーグ関係者と話していても「結局、強い球団が本気でアナリティクスをやれば勝つよね」という反応でした。

データの分析は、映画にもなった『マネー・ボール』(マイケル・ルイス著)で有名になったように、もともと資金力のない弱い球団が頭を使って勝とう、というところで始まった話だったのですが、膨大なデータが共有され、その解析が当たり前になると、よりリソースのあるところが勝つのは当然かもしれません。アナリティクスが到達点に至り、ある程度やり尽くした中で、各球団が「その次」を求めていることを肌で感じています。

――その次、というのが、脳の働きなのですね。

柏野:アナリティクスは、どのスポーツでもトップレベルでは普通になってきています。とはいえ、その先がまだありますよ、という話なのです。アナリティクスでとらえられていないものはたくさんあります。

例えば、投球フォームは同じ試合の中でも変化しています。疲れてきたのか、逆に調子が良くなってきたのか。投球フォームの変化はメンタルという要因と密接に連動しているのですが、そこは全く手つかずなわけです。そういう部分の解析が一つの方向性として考えられます。

メンタルと言うと精神論的な話になりがちなのですが、パフォーマンスが変わるということは必ず生理的な要因があるわけです。緊張した、乗ってきた、そういう状態によって身体の働きが変わる。周りの状況や自身の状態を脳が判断して、自律神経系などいわゆるホメオスタシスが勝手に作動するので、フォームが変わり、結果的にパフォーマンスが変わるのです。現在のアナリティクスで計測されているデータは、パフォーマンスの結果の部分だけで、その原因となっている、脳も含む生理的な状態に関しては全く手つかずなんです。

なぜ手つかずだったかと言えば、真剣勝負の試合というリアルなシチュエーションでデータを取れなかったからです。時速150kmの速球を誇る投手でも、ブルペン(投球練習場)ではなかなか140kmが出なかったりします。彼らに言わせると、「試合になれば勝手にスイッチが入って150kmの球が投げられる」と。ですから本番のリアルな状況で計測しないと意味がないのですが、それが、テクノロジーの進化で可能になりつつあります。我々はソフトボール日本リーグやプロ野球、社会人野球のチームの協力を得ることで、実戦やそれに近い状況で、これまでになかった生体情報や身体運動のデータを計測しています。

NTTコミュニケーション科学基礎研究所内にあるスマートブルペン。投手と打者の身体運動や生体情報のデータをリアルタイムで測定できる(写真提供:同研究所)

ボールの回転データで見えてきた奥深い世界

――データの蓄積によって、見えてきたものはありますか。

スマートブルペンに立つ柏野氏。同氏はプロジェクトのメンバーである桑田真澄氏の草野球チームで投手を務めており、自身のデータも計測して実験に役立てている(写真撮影:吉成 大輔)

柏野:トラックマンが導入されてから、「回転数が多いからボールのキレがいい」とよく言われるようになりましたよね。あれは必ずしも正しくありません。プロ野球の1軍投手のデータを見ても、ストレートの回転数が2400回転/分と多くても棒球とか、逆に2000回転/分以下とプロの平均に満たなくても非常にキレがあると感じられる場合も珍しくありません。具体的な選手名を出せると面白いのですが、ちょっと出せないので(笑)。なぜそんなことが起こるのか。まず物理的な側面から言えば、ボールの回転軸が非常に重要です。

例えば、右投手のストレートは回転軸が投手から見て少し右下がりのバックスピンになりますから、ホップ成分とシュート成分が混じります。そこに重力が働くので、基本的には落ちながら少し上に引っ張られ、右打者の内側に曲がっていく軌道になります。軸が水平に近い投手は同じ回転数でもホップ成分が強くなるので、伸びが出ます。

もう一つ重要なのが、回転軸がボールの進行方向と同じもの、いわゆるジャイロ回転です。ジャイロ回転自体は、ボールの軌道を上下あるいは左右には変化させません。総回転数が同じなら、ジャイロ成分の割合が少ないほど、上下左右への変化量は大きくなるわけです。ストレートであれば、ジャイロ成分が少ないほどホップするということになります。ジャイロ回転は、トラックマンのようなドップラーレーダーではとらえることができません。それに対し、我々はコンピュータビジョンの技術を使って、すべての方向の回転成分を分析しています。そのデータは、見た目のキレとある程度対応しています。回転に注目するとしても、軸の方向を正しく捉えないと何も言えないわけです。それに加えて、人間がどう感じるかという成分が入ってくるので、それはもう深い複雑な世界なのです。

(写真撮影:吉成 大輔)

――まだまだフロンティアが広がっているということですね。

柏野:我々は、今言ったような物理的な回転のその先を研究しています。「○○投手が投げるフォークは消える」「○○投手のスライダーは直角に曲がる」と言われることがありますが、物理的には絶対にそんなことにはなりません。でも、彼らの感覚からすると本当にそうなんですね。

我々もその片鱗をこの実験室で感じています。プロの投球は、本当に「消えた」という感覚になることがあるのです。ところが測ってみると、軌道は滑らかに曲がっているだけ。もっと極端なことを言えば、ある種のスライダーなんて実際はほとんど曲がっていないんですよ。でもバッターからは曲がって見える。そういうスライダーはジャイロ回転なんです。だから、すーっと落ちていくだけなのですが、右投手のストレートは実際には落ちるシュートなのにそれをストレートと感じているから、相対的にジャイロ回転のボールが逆向きに曲がって見えるわけです。

プロ野球のキャンプでコーチと一緒に投球練習を見ていた時に、「この投手はストレートがカット気味なんですよね」と言われていた投手がいました。でも自分にはどちらかというとシュートに見える。おそらく、プロの投手全体の軌道の分布からすると、ストレートとしてはカット気味ということなのでしょう。ボールの軌道がどう見えるかは、その人の学習によります。そのため、プロの投手の軌道を膨大に学習している選手やコーチからすると、物理的な軌道とはまた別の見え方になっていると考えられます。

バラエティ番組などで、ソフトボールの女子選手が投げる球をプロ野球の打者が打てないというシーンがときどきあります。あれは、球が速いから打てないのではありません。投球フォームと軌道の関係についての膨大なサンプルを学習し、予測が正確になっているプロの野球選手だからこそ、予測から外れたソフトボールの軌道にものすごい違和感があるのだと思います。実は私は密かに、無回転のナックルボールはプロにしか通用しないのではないかと考えているんです(笑)。

結局、目をどう使うかというだけでも、ボールの曲がり方、つまり見え方は全く違ってきます。眼球運動であったり、目がサンプリングした情報を脳がどういうふうに解釈するかだったり。そこまでを全部とらえて初めてバッターの感覚に近くなるのです。

(写真撮影:吉成 大輔)